このコラムの構成

泳げなかった、ワタシ

小中高と水泳には苦手意識があって、クロールで25mとか40mは泳げるんですけど、息継ぎが全然できない。

息継がうまくできないので息を止めて泳いで、20mくらいで、渾身の息継ぎをするけどもう苦しい。苦しいのを我慢しながらターンしてだいたい40mで力尽きるわけです。

泳げないわけではないけど、この泳ぎ方では常に”片道切符”の感覚があって、無事に生還できない気持ちがいつもあります。プールで遊ぶのは好きだけど、何kmも泳ぐ人たちは、どうなってんだろうと別世界の生き物を見る思いでした。

海難事故があったら泳げるわけがない。
そんな状態で、20代後半まで時間が過ぎてゆきます。

「泳ぐ」ではなく「浮く」という発想

泳ぎに不安をもっている状態からの変化は、水泳が得意な彼女ができて、親身になって教えてもらえたことがきっかけでした。

いきなり泳げるというわけではなく、平泳ぎの練習中、あることに気付けたのです。
それまでは泳ぐ→クロール→とにかく速く進むという先入観がありました。
手も足も全力なので消耗が激しく疲れます。しかも息を止めているので、窒息寸前の苦しさを味わいながら25m以降は進むわけです。これではただの苦行です。

しかし、平泳ぎを教えてもらう中で、発想の転換を体験します。

速くなくていい、ただ「浮いて」いればOK。

浮いた状態で手足を力を入れることなく動かせば結構な速さで進むという体験です。

「泳ぐな浮け。」こんなことは30年近く生きて誰も教えてくれたことも読んだこともなかった情報でした。

「浮くこと」から教えれば

泳ぐことを止めると死んでしまうマグロのような魚もいれば、あまり泳がないマンボウのような魚もいるわけです。クラゲだってほとんど泳ぐというより浮かぶ感じで海で生きています。

学校で教わる水泳はなぜか、マグロやイルカのように泳ぐことばかりだと思うのです。学校や地域によって違うのかもしれませんが、マンボウやクラゲのようなフワフワと浮くことを教えてくれる水泳授業は聞いたことがありません。

でもね、実際のマグロの泳ぎ、生態は高速で泳ぎ続けているわけではないらしいんです。
普段は人間の歩く速度(4km/h)から小走り(8km/h)で、捕食や逃げる時だけ100km/h以上の超高速で泳ぐらしいのです。

つまり、マグロだって、高速を出すのは疲れるわけで基本は人間の徒歩や小走りに近いモードを選んでいるのだから、人間だって疲れない泳ぎ方をする方が理に適うと思われます。

「浮くこと」ができれば、次はゆっくり泳ぎ(1〜2km/弱)へと進みやすくなります。疲れたらまた「浮け」ばいいのです。

ちなみに、世界大会レベルで人間の泳ぐ速さは速めの小走り(12km/h以上)ですが数分の瞬発的なものです。

また、人間が地上で歩く速度(4km/h)で泳ぎ続けることも、ある程度の基礎や慣れがないと難しく、実は誰でもできることではありません。

日本の水泳授業は、水難事故を教訓に全国に広まったとい経緯があります。「泳ぐ」よりも先に「浮くこと」を教えられれば水難対策としても有効だと思います。

紫雲丸遭難事故(1955年)で多くの児童が亡くなってしまった教訓が、全国の小中学校にプールの設置が推進されたひとつの要因とされています。

重要なことは「目的と手段」の見極め。

私が泳げなかった最大の要因は「手段と目的」の整理が曖昧なまま、泳げることは良いこと、泳げないのは運動が苦手な証拠、駄目なことという水泳授業、プール教室の枠組みに入れられたことだと思います。

最初に、人間の機能としてできる「浮く」ことからスタートできれば、泳ぎのスピードを緩めることも、止まって「浮く」こともできて、もっと楽に泳ぐことを自分の物にできました。

泳げるためには、いきなり泳げなくていいし、いろいろな泳ぎ方があるし、まずは「浮け」ばその先に進むことができます。
この辺を端折ってしまうことが、日々の暮らしや仕事のシーンでも意外と多い気がします。