このコラムの構成

低下する「届く力」

新聞の購読者数が急激に減っています。
テレビの総視聴者(視聴率)も急速に減っています。

かって、マスメディアは圧倒的な存在でしたが、スマホの出現によって紙面にもブラウン管(こういう言い方も昭和ですが)にもなるスクリーンが個々人の手の中に数百万倍もの規模で増加する中で、その存在は相対的に低下しています。

新聞で記事にされたから信用される、テレビに出演したから有名人という図式が現在よりも強くありましたが、現在はそうでもありません。
それでも、首相官邸や各官公庁にはマスメディアによる記者クラブがあり、特権的な取材を行うことができます。
首相が外遊する際には政府専用機に新聞社、テレビ局の記者が同乗することもあります。

となると、SNSでのフォロワー数が多さ、動画の再生回数の多さの方が、新聞社のサイトの閲覧数(PV)や番組の視聴率に勝ってしまう中で、新聞、テレビの優れた点はどこにあるのか?

歴史、権威、これまでの積み重ねでしょうか?
このよく判らないけどエラソーな状態に、「なにが偉いの?」という疑問符が突きつけられていることは、2024年の兵庫県知事選挙で顕在化しました。

 

機能不全になる2つの理由

新聞、テレビ、そして、新興のネットメディアも含めて報道機関として機能不全になる構造を内包しています。

理由は2つ。

1・何のための報道かという目的が曖昧であること
どういう社会を目指しているのかを明確に持ち、示しているメディアはあるでしょうか。

何のための報道であるか、目的と手段を認識している報道機関、メディアを私は寡聞にして知りません。このことがあらゆるニュースメディアの物事を測る基準、批評する視点が浅薄の理由の背景にあります。

たとえば、物価高という状況に、なぜ物価高となっているかの要因、背景を解説せずに節約術を報じるニュースのようなパターンです。
視聴率、閲覧数を上げるという目的のために、食レポや扇情的なタイトルをつけることが手段となっているとすれば、すでに末期的です。

2・いくら見ても読んでも社会が良くならないこと
新聞、テレビ、ネットのニュースコンテンツを熱心に読んだり視聴することで、社会がよくなったことはあるでしょうか。

ニュース報道というUX(顧客体験)は100年前と大きくは変わっていません。

情報の送り手は、受け手がどのような理解をしているか把握できず。情報の受け手は、ニュースコンテンツに対してリアクションを行うことが困難です。情報の送り手と受け手の間に信頼/TRUSTを構築する機会がなく、すれ違いが当たり前になります。

戦後から、高度成長期には日本社会に共通目標があったので、ニュースはそこに寄りかかっていても機能しました。しかし、90年代からはそうではありません。

ここにフェイクニュースが付け入る隙が生じます。

少々断定的かもしれませんが、ある程度の経験を踏まえて私は考え、書いています。
ニュース報道というUXのデザインについて、かつて私はいくつかの試行錯誤を行いました。

有識者のコメントが読める(現在の朝日新聞のコメントプラスや、ニュースピックスのプロピッカー)のような仕組みの日本初の取り組みは私が携わったフジテレビのコンパスでした。(アーカイブページはこちら

SNSを通じた視聴者とのキャッチボール、ニコ動やFMラジオとの連携など、実際にさまざまな取り組みを通じて限界が見えているということです。

勿論、この限界を超える方法も考えるわけです。

(図1)は、マスメディアをはじめとするコミュニケーション現状です。全国区でも地域でも、課題を考え続ける環境が失われています。
これは安全保障上も大きな問題です。

 

(図1)コミュニケーションの現状

自分たちの暮らしの環境を考え続けることが困難な状況です。
大統領や総理大臣でさえ、事実を踏まえない発言をしています。(たとえば-トランプ氏、南アフリカで「白人が迫害されている」ラマポーザ大統領との会談で主張 2025年5月22日 BBC / 「(日本の財政は)間違いなく極めてよろしくない。ギリシャよりもよろしくない状況だ」石破総理の国会発言2025年5月19日)
テクノロジーが進んでもコミュニケーションの困難さは増しているだけです。

どうやって克服するか?

これまでの新聞、これまでのテレビ、いまのSNSやネットメディアにできないことをニュース報道のUXとして確立すること。

これが、ニュース報道の存在価値をつくるほぼ唯一の方法です。

この稿は、ここで終わりです。
だって、もう解の大半は書いてあるじゃないですか。

そして、私がやろうとしている、私にしかできないことでもあります。

仲間が増えたら嬉しい。