それは、1stガンダムの向こうに届いた?

 社会体制が明確に変わったガンダムであること

『鉄血のオルフェンズ』という作品が最終回を迎えて、もうすぐ4ヶ月です。今更ではありますが、この作品の特筆すべきことに触れている意見が雑誌にもネットにも無いようなので、自分の備忘録として書いておきます。

それは、物語を通じて、社会体制が明確に変わったことが示されているということです。

このことは、ガンダム38年の歴史から見て結構凄いことです。

「1st」でニュースタイプの可能性が示されながら、連邦の支配体制は変わらず、「Z」「ZZ」でも、更にその後の「逆シャア」「UC」でも、社会体制は連邦による統治であり、変化には触れられないまま物語は終わってしましました。

『鉄血のオルフェンズ』では、鉄火団(主人公達の民間軍事会社の体裁をもった集団)は壊滅に追い込まれてきますが、その結果として、世界を支配する側のギャラ ルホルン(という軍事組織)のガバナンスは民主的な形に大きく変わり、実質的な植民地であった火星は独立を果たし、非人道的な扱いをされていた少年兵”スペースデブリ”は廃絶に向けた取り組みが政治的にも進むことが明示されています。

物語の(特に1期)途中では、鉄火団は何度も、無謀な賭けに出てのし上がるか、そこそこで収まるかの選択を迫られる描写があります。この演出が、教育も受けられず、消耗品として扱われ、既存社会に居場所がない中で、若者達が愚直に”此処じゃない馬鹿笑いできる何処か”を求める姿ととも相まって強い相乗効果を生んでいました。

鉄火団の在り様は、普段の生活で、意識か無意識に関わらず、そこそこで収まる選択をしている私達に、強く響くものとなっています。

1stガンダムの背景には60年代の世界的な学生運動はもちろん、「シオニズム」という単語がジオンという人名、国名にも影響しているように当時の生々しい政治経済の要素が基礎に埋め込まれています。
当時、アニメは子ども向け、絵空事が当たり前であった状況のなかで、一種異常な物語の組まれ方がしており、だからこそ、わけのわからない熱狂が生まれたのですが、それでも社会体制が変わる所迄は辿りつけてはいなかったのです。

無論、社会体制の変更がなく、主人公が亡くなるという「終わり」がないことは、プラモデルをはじめとするマーチャンダイジング市場の拡大につながり、大きなお金が動くことにうっかり寄与し、次の作品づくりの糧になるという恩恵も生んでいます。

そうした中で、主人公を含めた主要キャラクターが死亡し、支配側も含めた社会体制が変わる所までに踏み込めた『鉄血のオルフェンズ』は、物語として評価されるべきです。

 送り手側の軽さに見える、"物語<キャラ"

ガンダムの歴史上、画期的な物語になった『鉄血のオルフェンズ』ですが一方、残念なところもあります。

1期と2期を比べると、2期の粗さが目立つとという指摘もいくつかのファンの意見に見られます。おそらくそうした意見に共通する感覚は、作品の送り手側が自分たちが何を作っているのか無自覚であるように見受けられることだと私は考えます。

雑誌インタビューにおいても、キャラクターについての思い入れについて語られることは目立ちますが、作品の受け手である各年代のファン、視聴者に何を届けようとしているのかについての言及は、殆どありません。

キャラを重視しすぎる腐女子のような姿勢を見せてしまうことで、富野ガンダムの高みに遠く及びません。

高みに届くポテンシャルはあったのに、物語の送り手が、消費されるパッケージとして作品を捉えていることが見えすぎてしまい、物語の強度を落としてしまっています。

 「絵空事」と「現実」が地続きになると?

ただこれ以上、送り手側の事について述べても生産的ではありません。ファンとして真摯に作品に向き合うなら、どうすればいいか考えるほうが「わーい! すごーい!たーのしー!」のは明白です。

かつて、アニメ(漫画も)絵空事でした。虚構という言い方の方がかっこいのですが、そんなカッコつけは大人向けなので、子ども騙しという意味でも絵空事扱いされていたのです。

そうした中で、本家のガンダムは子どもに向けて
“わかりあえないこと”“わかりあえない故のすれ違い”が本家のガンダム”ではくり返しモチーフにされています。

その”わかりあえないこと”の克服のヒントに『ニュータイプ』という概念が提示されました。しかし、この概念はアムロの常人離れしたた操縦技術、『Z』でのモビルスーツがオーラに覆われて戦闘を行うサイキック的描写を経て、『F91』では、能力は凄いが不幸になった人が多い過去の人と表現され、 新訳『Z』ではカミーユとファが物語の終わりに強く抱き合う(性交を思わせるような)描写に集約されることで日常を大切にできる人のあり方として描写されてゆき、『Gレコ』では、主人公達が、自分たちが不勉強だから戦いが起こるので、もっと世界を見よう、学 ぼうとそれぞれの旅路につくという最終回にまとめられています。
この30年で『ニュータイプ』は、超人的ではなく極めて現実的に真摯に世界と向き合える人物像になっています。

昭和の時代、アニメは絵空事でした。そんな状況下で切れば血が出るような現実が埋め込まれた物語が『ガンダム』であり、その基礎があるからこそ現代まで続く最新の神話フォーマットになっています。
その現代では科学と経済が進み、アニメはただの絵空事ではなく、現実とリンクして機能する装置となり得ています。

『この世界の片隅に』『君の名は。』『ひるね姫 ~知らないワタシの物語~』あと、特撮ではありますが明らかに系譜が繋がる『シンゴジラ』ーこれらのヒット作は明確に、送り手が現実とリンクすることを意図した作品です。

アーサー・C・クラークの「十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない」という言葉(クラークの三法則の第三ともされています。)にあるように、科学と経済が発展することは、人間の望みや欲望である「虚構/絵空事」が、日々の「現実」に届くようになる現象を生みます。

ほとんどまぐれで、米ソ対立期の東西冷戦下のエアポケットであるユーラシア大陸の東の外れで高度成長期を迎えられた日本は、他の先進国が味わった緊張感の外で、妄想力をふくらませることができたし、そのことが80年代の先進性を生み出しました。しかし、その当時に培った先進性の貯金は現在において、ほとんど意味がありません。なぜなら、衣食住事足りて、日本社会は若い世代ですら老後の備えを気にする程に老化してしまい、妄想力が低下しているからです。

現金通貨を廃止し、電子通貨に移行する動きはインドやスウェーデンで現実のものとなっていますし、月や小惑星で資源開発や火星に人を送り込む計画も米国のベンチャー中心に進んでいます。
こうした取り組みは、数年前まで妄言扱いでしたが、今現実のものとなっています。

もうオタクだとか、クールジャパンとか言っている状況は過ぎてしまっていて、日本の妄想力をお手本にした次の世代達は、その具体化を進めているのです。たとえば、スペースXの様に。

 ガンダムから考えるメディアデザイン=設計

ガンダム作品群が苦手とするのは、メディアのデザインです。

かなりいい線をいっていたのは、1stガンダムです。サイド6で、シャアとララァがコロニー宙域近海のコンスコン隊とテレビ局中継を見ているシーンがありますが、現実社会で、実戦の最前線をライブ中継する能力を持つテレビメディアはまだありません。21世紀に暮らす私達はスーダンの自衛隊がどんな所で、何をしていたのか殆ど知らない位です。実戦の生中継には未来感がありました。しかし、その後の作品では、メディアは殆ど登場しません。

『UC』でも、優れたメディアが存在していれば、テロがあってもあの碑文は公開され、世界人口の半分が死に至る戦争は起こりませんでした。そんなことから、カイ・シデンがジャーナリストとなっていることを考えると、宇宙世紀の世界でもコミュニケーション領域のビジネスにはいろいろ問題があるんだろうなと思われます。

『鉄血のオルフェンズ』に登場するメディアも、科学技術が進んだ社会であるにも関わらず、古めかしい記号的な描き方をされています。それを主人公側のクーデリア嬢はうまく使いコロニーでの労働者蜂起に解決の緒を作り出しましたし、同じように、政商でるノブリスと敵組織ギャラルホルンは意のままに操り、鉄火団を社会的にも葬りました。

そんな骨のないメディアであるという描写は、社会課題を解決する気迫もなく、宇宙ネズミの境遇もコロニー労働者の立場も顧みられない社会となっていることを何も言わずに説明する材料となっています。

なぜ、あんなにドンパチばかりがガンダム世界で続くのか?と考えると、スポンサーの意向なんて答えは野暮で、当たり前すぎるわけです。

わかりあえないこと”と”わかりあえない故のすれ違い”はどんなに科学技術が進んでも起こるということ。
テクノロジーが高度でも社会のコミュニケーションが未成熟であれば、その担い手であるメディアが機能しなければ不毛な抗争は容易に起こると、作品世界に惹かれるなら考えることもできましょう。

1stに社会性とスケール感があって、その後の『Z』や『ZZ』が袋小路に入っていくのは、世間というメディアからの視点がなくなり、内輪での戦いに終始しているからです。

蛇足ですが、『逆シャア』は、アクシズ押し返しのシーンなどで戦争に直接関係がない人々の描写があることで、『1st』にあった社会性とスケール感を取り戻しています。『∀』での地球は無線の時代にまで戻っており、『Gレコ』では、メディアの描写は一切なく、各勢力は隔絶されています。だから、世界を見よう!というラストにもなるわけです。

 ガンダム好きなら、現実を変えよう

『鉄血のオルフェンズ』の最終回は、クーデリアのアドモス商会が大きな企業に成長していました。家族とも呼べた鉄火団の仲間を殺したギャラルホルンの首魁とも正面切ってビジネスライクに渡り合いながら、スペースデブリと呼ばれた使い捨ての少年兵の撤廃の制度化を進めています。物語のはじめでは人権が奪われ無駄死にが日常だった状態から、暴力ではない方法で現実社会を変えてゆける迄に状態が進化しています。

ガンダムという物語に惹かれるポイントは人それぞれですが、ガンダムという物語のファンを極めてゆくとビジネスマンか起業家か政治家か、何か社会と実業的な接点を持つことを目指すのではないでしょうか。少なくとも私は、そう考えます。
ロールモデルとして、庵野監督を挙げることができます。「逆シャア友の会」という同人誌でファンのひとりとして富野監督にインタビューをして、『ナディア』では作品の質を維持するために自腹を切り、スポンサーへのプレゼンで資金調達を行って自主制作で映画をつくり、特撮文化の維持と継承を社会に訴え、議員会館でも国会議員に明確にロビイングを行う姿は、理想を貫くために現実と向き合うクーデリアとも重なります。

1982年公開の『機動戦士ガンダム3-めぐりあい宇宙』のラストは”そして、今は皆様一人一人の未来の洞察力に期侍します”でした。

この3行を名古屋駅前の映画館で受け取って35年経ちます。ガンダムのファンとして、メディアデザインに未来の洞察力を投影することが、物語に未来を感じた者の誠実さだと思いますし、そういう原点を書き出すきっかけとなった『鉄血のオルフェンズ』は名作だと思うのです。

そして、ガンダムという物語の系譜の次の宿題は「1st」にあった現実社会との生々しいリンクを、そのヒントはポリティカル・フィクションの要素が混入されていた「シンゴジラ」にもありますが、今日の形で取り戻すことになる筈です。